古代〜中世 −1594年に大阪城の惣構として開削される−
  • 東横堀川周辺は、そもそも湿地帯だった。特に道修町周辺は東西に湿地帯が広がっており、戦国時代は「道修谷」といった。
  • 東横堀川は、1594年、大阪城の惣構として開削された。大阪城惣構は、大川、東横堀、空堀、猫間川の4つからなる。開削当時は「新堀」といわれたが、西横堀川が開削されて後、東横堀川と呼ばれるようになった。
  • 大阪城築城(1583年〜)の際、当初は四天王寺、南に向かった都市開発が考えられ下寺町や上汐町が建設されたが、1598年、惣構の内側に三の丸の堀が建設された際、城内となった民家は東横堀川より西に移転され、都市開発は大阪城から西の方向へ進行するようになった。
  • 1614年の大阪冬の陣図屏風には、本町橋や曲がりが明確に描写されており、この時にはすでにおおむね現在の東横堀川の形状となっていたことがわかる。
近世 −大阪八百八橋のうち3つの公儀橋が架かる上町と船場の境界−
  • 近世、西へ町人町の開発が進み、東横堀川は町人町・船場と武家町・上町を東西に分かつ境界となった。
  • 天明3年(1783)に東横堀川北端右岸に蟹島築地、明和4年(1767)に曲がりの両岸に築地が形成され、料亭や待合茶屋などが集積する遊興の地となった。
  • 江戸初期、船場は未開発地、いわばウォーターフロントであり、本靭町・本天満町(現在の伏見町)には豊臣期に天満から移転してきた魚市場が立地したが、船場の開発が進むとともに西(現在の靭公園周辺)へ移動した。
  • 高麗橋、本町橋、農人橋の3橋は、近世には公儀橋であった。公儀橋とは、寛永11年(1634)特に重要な12橋を選び、幕府が直接管理し、補修に当たっては大阪金蔵から出費することになった橋。それ以外の橋は全て町橋といい、橋の両詰の町々で管理費用を負担した。
近代〜現代 −都心の水の回廊のうち、最も川幅が狭く高速道路が通る川に−
  • 明治期から戦前、市電開通により、明治44年(1911)現土佐堀通り、明治45年(1912)堺筋、大正2年(1913)本町通、が拡幅された。さらに、昭和9年(1934)に松屋町筋、昭和14年(1914)に平野町通りが拡幅され、地区内の主な幹線道路が整備された。
  • 第二次世界大戦時、東横堀川界隈一帯は大きな戦災の被害を受けた。この復興をめざし、昭和26年(1951)から戦災復興土地区画整理事業が松屋町筋以東のエリアで実施され、昭和48年(1973)ごろに施工完了した。
  • 昭和40年(1965)、高度経済成長期を向かえ、東横堀川上に阪神高速道路が建設された。つづく昭和43〜51年(1968〜1976)の間に、都市小河川改修事業により、河岸公園や緑地、コンクリート護岸が整備された。さらに、昭和53年(1978)に今橋と高麗橋の間に浄化水門を設置、平成12年(2000)には高麗橋と平野橋の間に東横堀水門を設置した。

東横堀川は大阪最古の堀川であり、数々の橋や曲がりの曲渕地蔵尊など歴史や文化を体験できるスポットが多い。また川沿いには水門が見える公園など落ち着いたオープンスペース、川を眺めることができる個性的な店舗などが存在しており、まちなかで川を身近に楽しめるエリアとなっている。

■歴史ある橋

地区内には、葭屋橋、今橋、高麗橋、平野橋、大手橋、本町橋、農人橋の7橋が架かっており、高麗橋、本町橋、農人橋の3橋は江戸時代には公儀橋(江戸時代、幕府が直接管理した橋。大阪全体で12橋のみ)となっていたなど歴史的に重要な橋が多い。

葭屋
橋遊興の地・蟹島築地への架け橋
俗に築地と呼ばれた蟹島遊廓への通路として設けられた。この遊廓は天明4年(1784)、葭屋庄七らによって開発されたもので、橋も天明年間(1781〜1789)に架設されたと考えられる。蟹島の地は大川の眺望が非常によく、料理屋、旅館などが建てられ発展した。
今橋
上町から船場への新たな橋
上町側から発展してきた船場側への交通の便をよくするため、新たにかけられた橋「今(=現在)橋」といわれる。大阪の陣の様子を描いた絵図にこの橋の名が記されていることから、豊臣時代には既に存在したと考えられる。
高麗橋
大阪歴史の表舞台
慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。江戸時代には公儀橋であり、橋の西詰には幕府の高札が立てられ街道の基点が集中、明治時代には西日本の主要道路の距離計算の起点として里程元標がおかれるなど、交通の要所。
高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮国使の迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するという説が主なもの。
近松門左衛門作の浄瑠璃の舞台、大阪名物かき船発祥の地、大阪で初めて鉄橋になったなど、様々な逸話が残る。
平野橋
御霊さん神明さんをつなぐ一六夜店
江戸時代、東に神明神社、西に御霊神社があり、その門前の盛り場として賑わっていた。1と6のつく日に定期的に開かれる一六夜店は当時の大阪名物のひとつとされており、明治期までその賑わいは続いた。
大手橋
右に行くか左に行くかの思案橋
古くは思案橋と呼ばれており、大手橋と名付けられたのは大正時代になってから。大阪城の大手門に通じる大手通にあたるが、なぜか橋の西側で行き止りになっている。橋を渡って左右どちらに行くか迷うために思案橋と呼ばれるようになったとされる。
本町橋
現存する大阪最古の橋
現役の橋としては、大阪市内最古の橋。大正2年建設。江戸時代には公儀橋であった。豊臣秀吉が大阪城築城に際して東横堀川を外堀として開削した時に架けられたと考えられている。橋詰の北東側には享保9年(1724)の大火事以降に西町奉行所が設置され、行政の中心地となった。
農人橋
上町の農民が田畑へ通った橋
江戸時代には公儀橋であった。橋名の由来について『摂津名所図会大成』には、「いにしえより農民が田畑へ往き通うための橋で、土橋と同じような形式であったが、寛永・正保の頃(1640年頃)までは船場には田畑や芦原などが多くあって、(中略)寛永年間、急速に発展していく。これに伴って橋も高欄擬宝珠をもった立派な造りとなった。」と説明されている。
■川を楽しむことができる店舗

 ダイニング・アップリケ、カフェmu、濱田屋など、川を眺めながら食事を楽しめるハイセンスな店舗が点在する。

■川辺のオープンスペース〜公園・水門・高架〜

 葭屋橋から大手橋を中心に川沿いに公園が立地し、水門や阪神高速道路の高架が通るなど、都心の堀川ならではの独特のオープンスペースとなっている。毎年12月には高速道路の高架を生かしてライトアップが行われている。(平成18年〜)

■曲がりと曲渕地蔵尊
曲がりの由来
上方落語「饅頭こわい」にも登場する本町の曲がり。その由来については諸説がある。
  • 浄国寺を避けて開削したために曲がりができたという説。(「摂津名所図会大成」)
  • 地形・地質的な理由から曲がりがつくられたという説。
  • 大阪城の外堀としてまっすぐでは芸がないので曲げたという説。

 東横堀川で唯一曲がっている本町橋南側を「曲がり」と呼び、両岸に曲渕地蔵尊と東横堀公園が面し、船上からも見ることができる。
曲渕地蔵尊は、阪神高速建設にともなって浄国寺が移転した以降、路上に放置されていたが、地元住民の尽力により再び祀られている。毎年8月23・24日には地蔵盆が行われる。

北船場エリアは、近世以降に町人文化が花開いた商都大阪の中心地で、近世からの商いを受け継ぐ老舗が集積している。また、小西儀輔商店など多数の歴史的建物や地域の資料を展示した私設まちなかミュージアムが点在している。

■文化財級の歴史的建物の集積

エリア北部・歴史的な証券取引の地北浜は、都心にありながら比較的戦災が軽度だったため、伝統的な町家や近代建築などが数多く集積している。重要文化財に指定されるような価値の高い文化財級の建物が徒歩圏内に立地していることが特徴的である。

国指定重要文化財 旧小西儀助商店(株式会社コニシ)
日本綿業倶楽部
国登録有形文化財 青山ビル/伏見ビル
生駒ビルディング/八木通商大阪本社
旧岸本吉左衛門邸/船場ビルディング
その他 岡三証券/三井住友銀行大阪中央支店/トキワビル
大阪証券取引所旧市場館/阪口邸
三栄源エフエフアイ/開平小学校校舎
武田薬品工業道修町ビル/明治屋ビルディング
綿業会館新館/本町ビルディング
鹿児島銀行大阪支店/日本キリスト教団浪速協会

 

■多様なまちなか文化施設
企業家ミュージアムのほか、地元企業や神社、小学校など、自己所有する資料を展示する民間資料館が多数開設され、小規模ながらも地域に密着した資料、専門的な展示が充実している。また、ギャラリーやホールなども点在している。

資料館 大阪企業家ミュージアム
花外楼資料館
開平小学校資料室
くすりの道修町資料館
荒川歴史館
イトーキ史料館
ギャラリー 辰野ひらのまちギャラリー
フジカワ画廊
その他 大阪美術倶楽部
テイジンホール

 

 

■歴史的建築の魅力を生かした店舗

 近代建築をリノベーションした飲食店や、昔ながらのたたずまいを伝える老舗など、歴史的建物の魅力を生かした店舗が数多く存在する。

■船場で商い続ける老舗店舗

天正年間(1573〜1592)創業の老舗和菓子屋「菊屋」をはじめとし、結納用品、うなぎ、料亭など、船場で商いを続ける老舗が多数存在する。

中世創業 菊屋
近世創業
(江戸時代)
株式会社渋谷利兵衛商店
本家柴藤
花外桜
菊寿堂義信
先春園
近代創業
(明治〜昭和戦前)
荒木蓬莱堂
有限会社ゼー六
吉寅本店
?太八
吉兆本店

北中大江エリアは、上町台地先端の地であり、古代・難波宮からの歴史がある地区。生國魂神社および坐摩神社の発祥の地であることから、それぞれの行宮が立地する。また、都心部にしては寺院も多い。近世以降は大阪城下の武家町として栄え、東西の奉行所等多数の施設が立地した。その跡地は現在大阪商工会議所や中大江小学校などとなり、多くの公共的施設が立地している。

■歴史ある社寺の集積

上町台地の先端の地であり、古代から続く生國魂神社および坐摩神社の発祥の地。豊臣秀吉の大坂城築城の際、それぞれ現在の地へ移転したため、当地には行宮が残る。また、長光寺や日限地蔵院など歴史ある寺院も点在する。

○ 神社
生國魂神社行宮 生國魂神社は、石山の地に古代より祀られた神社。行宮はかつて中之島宗是町にあったが、明治15年の氏地整理の際、現在地に移転した。東横堀川左岸一帯は生國魂神社の氏地。
坐摩神社行宮 坐摩神社は4世紀、神功皇后が朝鮮出兵の帰途に巨石の上に坐摩大神を祀って御子の安産を祈願したことが創始といわれているが、異説もある。この地が当初の坐摩神社鎮座の地で、天正11年(1583)、大阪城築城に際し移転し行宮となった。地名の石町は境内の巨石に由来するともいわれる。東横堀川右岸一帯は坐摩神社の氏地。
稲荷商工稲荷神社 天正11年(1583)、大阪城築城にあたり若宮稲荷神社を奉祀したとされる。江戸時代は西町奉行所、明治時代は府立大阪博物場が設けられた。昭和41年大阪商工会議所建設の際、会議所の商工稲荷神社と併祀された。
○ 寺院
正福寺 天正11年(1583)西成郡西高津村創建、元和4年(1618)近江町(釣鐘町2丁目)へ移転。大塩平八郎の乱の際、住職宗円(現住職の祖父)の妻ナオは平八郎の妹であったが、義徒の後累に対して罪三族に及ばない寛典が施され、罪を免れたという。
長光寺 元和4年(1618)戎之町(釣鐘町)創建、寛永13年島町へ移転。幕末には坂本竜馬や吉田松陰らが来泊し、庫裏の3階で倒幕の謀議をこらしたこともあるという。幕末資料を多く所蔵。
日限地蔵院 当初この地にあった京都知恩院出張所のなかにあったが、明治12年、出張所撤退を機に町内共有として地蔵堂を建立。万延年間(1860-1861)鴻池家子息の難病を日ならずして快癒したことから、日限(ひぎり)の名がつけられたという。
■公共的な施設の集積

大坂城城下町の武家町であったため、東西奉行所や牢屋などの公的施設が立地し、その跡地が公共的な施設となっている。特に、西町奉行所の跡地である本町橋西詰には、大阪商工会議所、マイドームおおさか、シティプラザ大阪などが立地する。

■仕事帰りに楽しむ山本能楽堂

御祓筋の東に位置する山本能楽堂は、戦前に創設された能楽堂で、建物は国の登録有形文化財に指定されている。オフィス街の立地を生かした多彩な能公演が行われている。

■上町台地への坂道

上町台地の先端であるため、西側の船場から坂道となっている。地形の起伏がほとんどない大阪都心部で珍しい坂道の景観を形成している。

■都心のオアシス・お風呂

エリアには、昔ながらの銭湯・大手湯、シティプラザ大阪の足湯があり、地域の人々の憩いの場となっている。

 

 

みんなの想いを集めて、水辺の魅力向上のプランづくり

東横堀川は、現在はほとんどが高速道路の高架で覆われており、護岸が高く、あまり水辺に近づくことができない川になっています。ですが、じっくり東横堀川と触れ合うと、重層する歴史と豊かな文化、まちを愛する多彩な人々が存在し、都心でほっこりできる魅力的な水辺であることがわかります。このような魅力を生かして「これから」の水辺づくりに取り組もうと、大阪・水辺のランドスケープ研究会と地域が一緒にワーキングを開催し、2006年3月に「東横堀川・水辺の魅力向上プログラム」をとりまとめました。やはり、水辺の魅力アップには舟が欠かせないだろうということで、主に本町橋に船着場を整備することを提案しました。

出来ることからコツコツ実践スタート〜水辺の緑化・清掃、まちあるきツアー、小型船係留実験〜

「東横堀川・水辺の魅力向上プログラム」の実現に向けて、まずは自分たちが出来ることからはじめようと、本町橋にフラワーポットを設置したり、橋洗いや水辺の公園のお掃除をする活動をスタートしました。(本町橋フラワーポットプラン) また、水辺の魅力を伝えようと、川とまちから水辺を楽しむクルーズ&ウォークツアーも始めました。(東横堀川クルーズ&ウォークマップ) そして、船着場がない東横堀川で舟を楽しむ可能性を探ろうと、小型船の短期係留実験も開催しました。(東横堀川・小型船の短期係留報告書

水都大阪2009の公式プログラムとして、大胆な水辺の魅力アップを試みる!

そんな地道な活動を大きく飛躍させたのは「水都大阪2009」の公式プログラムとして暫定船着場を活用した社会実験を行ったときでした。船着場の周辺で水辺を楽しむ空間をつくろうと、デッキテラス「川舞台」を設置し、e−よこ会で活用するだけでなく、地域団体やNPOなどが活動の場にできる水辺のオープンスペースとして貸し出しました。また、普段はあまり使われていない水辺にいろんな人に来てもらおうと、「e−よこ水辺ピクニック」を開催しました。(水辺ピクニック報告書)こういった水辺の活用実験を次につなげようと、2009年9月には大阪市に対して「船着場と親水空間整備に関する要望」を提出しました。また、私たちe−よこ会の宣言として「東横堀川水辺への10の想い」をとりまとめました。

新たな水辺づくりのステージ「使いこなし」に向けて

コツコツと水辺に関ること、大胆な実験を試みることで、水辺を活用するにあたっての課題や可能性が見えてきました。そこで、もっと目に見える形で東横堀川の水辺の魅力アップを図ろうと2010年2月に「水辺の使いこなしガイド」をまとめました。これは、東横堀川の水辺を構成する沿川建物や公園をどのように使いこなせば水辺が魅力アップするか、それに向けて自分たちでできることは何か、という視点でまとめています。イベントだけではなく、いつも素敵な水辺を実現するためには、水辺に関るそれぞれが目に見えることを実現していくことが大切です。それぞれ担当メンバーを決め、「窓花プロジェクト」や「オープンリバーパーク・プロジェクト」が動き出しています。

 

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